ざっくり箱

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最後の手紙  [市川團十郎]

         [市川團十郎が人工呼吸器をつける前、筆談で伝えたメッセージ]


雪


こんな大雪の日にみんな来てくれてありがとう

うちの家族は みんないい人で 僕は幸せだ

麻央さん くれぐれも体を大事にして下さい

いいお嫁さんが来てくれて 僕はうれしかった

團17




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  1. 2013/03/01(金) 17:01:00|
  2. 手紙 ~message~

いつも明るく、優しく、大きく。 [市川海老蔵]

[市川團十郎告別式  喪主・市川海老蔵の挨拶]

團1
本日はご多忙の中、足元のお悪い中、
父・十二世市川團十郎の葬儀告別式に
ご来臨を賜りまして
誠にありがとうございました。
團2
とてもさみしいです・・・・・

しかし、父の子として生まれて
本当に幸せでした。

今、皆様からのお話にありましたが、
父は若くして父を失い、また母を失い、
團3白血病という大病を二度も患い、
そして息子が私という…
なんとも苦労のたえない人生でございました。

しかし、そんなとてもつらい
苦しいことがあるにもかかわらず、
我々家族の前では
團4いつも明るく、優しく、大きく、
どーんとした父でした。

初めて父とお酒を飲んだ時に
父は、十一代目團十郎(祖父)と
そのような時を過ごしたことがなかったため、
團5「孝俊。とっても うれしいよ」と。
「しあわせだ」と…言ってくれたことが…
とても思い出に残っています。

人口呼吸器をつける時に
意識がなくなるので、
最後に話がしたいということで。私は
團6浅草公会堂に出演させて頂いておりましたので、
テレビ電話での会話になりました。
その時、母に聞いた話ですと
呼吸がつらく、とてもしゃべるのが困難だったと。

しかし、私とテレビ電話でつながった時、
その時、テレビの画面から見えた父の顔は、
團7とっても優しく、いつもと同じような笑顔でした。
目をつむるとその時の父の笑顔が
まぶたに焼き付いています。
これは本当に私の一生の宝物です。

生前、最後の言葉は
團8「いつもみんな、ありがとう」でした。
そんな時も、そんな優しい言葉を
かけてくれたのが…
とてもびっくりした思い出があります。

先日、父が残した句が
(パソコンから)出てまいりまして。
團9その句は・・・

「色は空 空は色との 時なき世へ」

初めてそれを見た時に
「あっ、自分の最期を悟っていたのだな」と。
「あぁ、気づかなかった」…
團10大変申し訳なく、情けない思いがしました。

父は空を眺めることや
星を眺めること、
宇宙がとても大好きでした。
もし空を眺めた時に少しでも
團11父のことを思い出していただければ、
我々家族にとりまして
これ以上の幸せはございません。

私にとりまして父であり師匠であって。
かけがえのない存在をなくしてしまいましたが
團16父からいただいたこの体、
そして父が35年間かけて
伝えてくれた歌舞伎の精神。
これを一生かけて
この道に精進してまいりたいと思います。










  1. 2013/03/01(金) 17:00:00|
  2. 手紙 ~message~

人一倍の悔しがり屋でございました  [六代目・中村勘九郎]

[六代目・中村勘九郎、襲名披露の口上]

口上1



   このたび松竹株式会社、また先輩、後輩、幕内、
   皆々様のお力添え、そしてご贔屓、いずれも様のご賛同を得まして、
   父が46年間名乗り、戦い、魂こもりし「勘九郎」の名跡を
   六代目として襲名させていただく運びと相成りましてございまする。

   顔見世にて、このような立派な襲名披露興行、
   いや、この勘九郎の襲名披露興行が、こうやってできまするのは、
   本当に父のおかげでございます。
 
   父・勘三郎と、母・好江の間に生まれて誇りに思い、感謝をしております。


   「親子は一世」という言葉がございまして。芝居でございますけれど。
   先程、我當のおじさまが
   「親孝行者だ」とおっしゃってくださいましたけれども。

   ・・・・何も出来ておりません。
    産みの恩も・・・・・・

   本当に悔しゅうございます。
   もっと、いっぱい芝居がしたかったし、
   教わることなんて、もう、数え切れないほどあります。
   話もしたかった。
   飲みに行きたい場所、飲みたい酒、いっぱいあります。
   本当に悔しゅうございます。
   しかしながら、一番悔しいのは本人、父でございます。
   人一倍の悔しがり屋でございました。

   だって、大好きな芝居が、もう出来ないんです。
   大好きな仲間たち、先輩、後輩の皆様さんと芝居が出来ない。
   そして、皆様の笑顔が見られない。
   本当に無念だと思います。
   私たちも無念です。
   しかし本当に前へ進むしかないと思っております。
   進まなければ怒られると思います。
   そういう父でした。

   で、ございますので、頼もしき弟・七之助、
   ならびに中村屋スピリッツを受け継ぎし門弟、
   中村鶴松、中村小山三、中村勘之丞、中村山左衛門、中村仲之助、
   中村小三郎、中村いてう、中村仲四郎、中村仲太郎、
   皆と一所懸命、努力、精進し、切磋琢磨し、
   父がいつも言っておりました「お客様に少しでも笑顔になっていただく」
   「お客様に少しでも楽しんでいただく」ような、
   いい芝居を作り上げることを約束いたしますれば、
   何卒、いずれさまも温かき御声援、また厳しいご叱咤、
   ・・・それと、

   父のことを忘れないでください。

   心よりお願いを何卒、申し奉る次第にございまする。


口上2





  1. 2012/12/06(木) 18:00:00|
  2. 手紙 ~message~

父と同じ道。     [市川猿之助]

三代目市川猿之助の息子・香川照之と孫が
歌舞伎の舞台を踏むことが発表された。

市川猿之助が前妻・浜木綿子へ向けた言葉。


          浜さん、ありがとう。
    
          恩讐のかなたに ありがとう。

           更新は12時か17時-猿之助1



更新は12時か17時-猿之助2猿之助の、この言葉の重みは「父子の断絶関係」を知る人にとって感慨深いものがあるだろう。
香川の「歌舞伎への思い」が成就される日が来るとは思いもよらなかった。

香川は1965年、市川猿之助と浜木綿子の間に生まれた。
2歳の時、両親は離婚。香川は浜が引き取った。
女優業をしている母親は多忙で不在がち。孤独な少年期を過ごしている。
香川は少年時代を振り返り「友達いないし(言ってることは)全部本心じゃないし。
世界が終わればいいと思っていた」と語っている。
「俺が“こんな芝居”をやってるってことは、コンプレックスとか、
おかしな怒りがあるんですよ。家庭がねじくれまがってたんです」と。

父を知らず育った香川は、やがて母と同じ役者の道へ。
若手の頃、松田優作と共演し、その姿に「父」を見出す。

優作さんに会って、俺は優作さんのことを父親だと一瞬思ったの。
この人に聞けば何でも答えてもらえるんだ、と。
初めて人生で父親を見つけたと思ったら、2か月で逝っちゃうからさ…。

25歳ぐらいの時に急に思い立って、
彼(猿之助)が歌舞伎してるとこに行って…
会いにいったんですよ。
そしたら「あんたは俺の子供じゃないから」って言われて。
「あんたを捨てたとこから俺の人生は始まってるんだから、来ないで」って。
いかに私の人生、父親というものに縁がないか、と。

自分の引け目として歌舞伎の血が入ってることが大きいかな。
父性…あれは男が継いで行く家業でしょ。
その家業を持ちながら、父親がいないってことの逆説だよね。
歌舞伎をやってないことの負い目って言うか。
今は非常に負い目に思っている。子供に申し訳ないと思うよ。
「お父さん、なんでやってないの」って言われてもね。
「それは、じいちゃんとばあちゃんが別れたからだよ」っていう、
人のせいにはできない。
父性の流れが俺で分断されてるってことが、
そのことが先祖に対して申し訳ないと思った。


更新は12時か17時-猿之助3香川は息子が生まれたことで、途絶えていた父・猿之助との関係につながりを持てるようになった。
猿之助が8年前脳梗塞で倒れ、後妻の・藤間紫も亡くなり、独り身であることも影響しているだろう。
今はいっしょに暮らし、父・猿之助をサポートしている。

両親の離婚の原因は「猿之助と藤間紫の不倫」と言われており、浜木綿子の心中は複雑なはず。
香川もそのことは承知しており「母が一番心を痛めているかもしれません。
僕のやろうとしていることを許してくれたことを感謝してます。
それがなければ、なかった話です」と語っている。
だからこそ猿之助の、浜への感謝の言葉は、たった一言ではあるがずしりと来る。
香川照之が、九代目・市川中車(ちゅうしゃ)として初舞台を踏むのは来年6月だ。







  1. 2011/09/28(水) 17:00:00|
  2. 手紙 ~message~

 芳雄へ    [石橋蓮司]

           原田芳雄の盟友・石橋蓮司の弔辞
          $げんのブログ-告別式2


    原田芳雄に向かって…自分が弔辞を言う…。

    こんな馬鹿げた、悪ふざけはあるだろうか。

    「弔辞」という文字も正確に書けなかったし、
    弔辞とは「故人の業績を讃え人に伝える」とあったが
    今、芳雄の業績なんか讃えたくもないし 人に伝えたくもない。

    ただただ…

    ただただ…

    お前が今 ここにいてくれればいい。

    お前が今ここにいて「これは冗談だ」と言ってほしい。

    それが芳雄。
    家族に対して…また俺たち仲間に対しての最大の業績だよ。

    ほらみろ。

    破たんしてしまったじゃないか。お前が悪い…。

    じゃあ、こうしよう。
    これは映画の一場面として、アドリブで何かしゃべってみるよ。

    芳雄。
    おまえと一緒にやった映画、全部うまくいったな。
    そして最新作「大鹿村騒動記」。
    あの2週間。
    お前が病魔と闘いながら作品に挑む姿は
    感動的だったし、凄みさえ感じたよ。

    あの映画の原案は芳雄だと聞いて 
    台本を読んだとき、正直言って俺にはよく分からなかった。
    なぜ芳雄が、そこにこだわるのか。
    なぜそこまでこだわるのか、よく理解できなかった。

    でも完成試写を見たとき、
    何か、心がふるえるのを感じたよ。
    今も感じている。

    それはあの2カ月後、日本が未曽有の大災害に襲われ、
    多くの村々が壊滅的打撃を受けてしまった。
    そして今、その、各村々の方々が 一緒に手を取り合って、
    過酷な環境の中、苛烈な現実を乗り越えようと 
    一生懸命がんばってらっしゃる。

    しかも 遊びを取り入れながら…その力の源はなんなんだ。
    どうしてそうできるんだろうか。
    この映画でその源の一端を 
    ほんのささやかでも、提示できたのではないだろうか。

    このように原田芳雄は 直感力が鋭く…動物的勘と言ってもいい。
    いつも 人の心の 活断層の軋みを 
    誰よりも早く聞き取り、そして予感し、
    具体的な作品におこして、見事肉体化してみせたよな。

    芳雄。
    お前の力と身体は まだまだ日本の映画界に必要だよ。
    お前が次回作、どんなことをやりたかったのか、
    どんな声を聞き分けていたのか、何を予感していたのか。
    これから…

    家族の方々に教わって…章代、喧太、麻由にいろいろ教わって、
    具体的な映画になれるよう、俺も含めて一生懸命がんばってみるつもりだ。
    具体的になったらば、すぐに報告にいくから、
    それまで少し、ほんのちょっとだけ 休んでててくれ。

    また破たんしそうだからこれでやめる。

    芳雄。
    だらしなくてごめん。

         げんのブログ-告別式1



  1. 2011/07/24(日) 17:00:00|
  2. 手紙 ~message~
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